嬉しかった

Dsc06942

 行けば彼は、車椅子に座ってパソコンの前に居た。痩せ細った顔が振り向いて笑う。
「どうした?」
「何が?」
「だってお前、足し算もできなかったじゃねえか!」
「もう大丈夫」
「大丈夫って、お前・・・」
 私はただ唖然とするばかりだった。
「先生にも注意されるくらい努力して、少しだけ杖で歩けるようになったんだよ」
 と傍で連れが言う。
「そうかあ・・・」
 と言いながら、以前とは違うその顔の意志を私はしっかりと感じ取っていた。
「〇ちゃんに見せたかったのよ」
 と言う彼女に、
「うるせえ、早くお茶を入れてこい!」
 と以前の彼が言う。
 素直に嬉しかった。そして、自分の怠惰を思い知らされて情けなくもあった。人間の底力と、努力の素晴らしさが、夕暮れの対向車のライトをいつになく眩しくてさせて仕方がなかった。

| | コメント (0)

思わず呟いていた

Fh000190_1

 まだ一人では歩けないまま自宅リハビリに入った同じ歳の本人から、突然電話が入って驚いた。
「退院して青空が見えたと思ったけれど、どうも・・・」
 と泣く。あれだけプライドが高いのに・・・。
「なに言ってんだ、電話ができるようになっただけでも大したもんだ!」
「お前と酒が飲みたい・・・」
 と言ったきり、啜り泣きの声が漏れてくる。
「待ってろ、もう直ぐだよ、まだ一年じゃないか。これからだ、これからの快復が俺は楽しみだなあ」
「歩けるようになるよなあ・・・」
「なるさ。なにも焦ることはない、人生はこれからだ」
「そうだよな・・・」
「そうさ、そうに決まってんじゃねえか!」
「〇ちゃん、勉強してるか?」
「それがよお、怠けてばかりで駄目だよ。俺って駄目だよな。でもさあ、お前が頑張っていることを励みして、前よりはヤッテル。最近はさあ、朝五時前に起きて机に向かうんだぜ。起きて座るだけだけどな」
「じゃあ、夜遊びもしねえのか?」
「止めた。酒の量も減らした」
「そうかあ・・・」と言った後、近況をいつまでも話し続けている。
 ああ本当は、近ごろ酒の量が少し増えてきてしまっているのに、嘘をついてしまったなあ、と窓の外の真っ青な空を見上げながら、どことなく気恥ずかしい気持ちで聞いていた。
「近いうちに行くからな!」
「わるいな、待ってるよ」
「おう」
 受話器を置くと、「そうかあ、電話をかけられるようになったかあ」と立ち上がり思わず呟いていた。

| | コメント (0)

温いひととき

Fh000030_3

 おばあさんが一人、遊びに来ていた。名前は「しんよ」。少し物忘れが始まっているが、自分でも火は使わないと心得ているし、今のとことろ自宅も忘れない。どうやら、可愛がっていたお孫さんを不慮の事故で亡くしてから、その物忘れはひどくなったらしいが、子供夫婦との生活や社会生活にはそれほど支障はきたしていない、らしい。私は、このおばあさんが好き。性格がいい。飾り気もなく、人の悪口を言うのでもなく、損得の話もしない。生まれ持った素直さが言葉に表れる。
「今日は何日だっけ?」
「おばさん、頼むよう、日にちぐらい忘れないでよう。何曜日かは分かる?」
 と大笑いしながら言うと、横で聞いていた母親が、笑いながら教えるのだが、それが違っているので、私は笑うに笑えなくなる。
「ところで、おばさん。おばさんの名前は知っているけど、どんな字を書くの?」
 と訊いてみた。
「いやだよう・・・、恥ずかしくておしえられないよ」
「なぜ、いいじゃ、教えてよう」
「なるべく人には言わないでよ」
「言わない、言わない。ね、だから教えてよ」
「あのね、父親が大馬鹿だったから変な字でさ。もう、子供の頃から嫌でいやでしょうがなかったよ」
「だから、どんな字さあ・・・」
「地震の年に生まれたから、震える代だよ。地震の震だよ」
「えっ! おばさん関東大震災の年に生まれたから『しんよ』なの」
「そうだよ。震えてばかりの人生だったよ」
「アハハ、憶えやすくていい名前だよ」
「そうかねえ。こんな名前を貰ったから長生きできるかどうか・・・」
「ええっ? 長生きって・・・。おばさん大正生まれだから幾つよ?」
「それが忘れちゃって分からないんだよ」
「ああああ、大丈夫。おばさんは長生きするよ、保障するよ!」
 長生きの秘訣を教えてもらったような気がして、それこそ、そこはかとなく温いひとときだった。

| | コメント (0)

明け方の月

Fh000051_2

 まだ暗く冷たい朝、二階にある部屋の窓を開け放つ。家人を起こさぬようにそっと新聞を取りに行き静かにお茶を煎れる。それを手にして西向きの机の前に座ると、あっ、なんだあれは、と目の前にさっきまで気づかなかった大きな月が浮いていた。そうか、昨夜は満月だったのか、と両手に湯飲みを包み込み、明け方にこんなに美しい月を見られるなんて、と肘をついたまましばらく眺める。黄色いまん丸のお月様がゆったりと山の峰に向かっていることが分かる。何故か僕は、人と同じような幸せ、いや、それ以上の違った幸せを信じて来たことを考えていた。しばらくして空がぼんやりと白んでくると、月は化粧を落とすように色褪せて、やがて真っ白に様変わりしてきた。そして時を刻むように徐々に姿を隠していった。振り返ると、東の空からは太陽が神々しく光を放ってきていた。
 相変わらず僕は、人と同じような幸せ、いや、それ以上に違った幸せを信じて、「よしっ!」と思ったのかもしれない。

| | コメント (0)

法律

Fh010021_1_2

 罪を憎んで、人を憎まず、と言うのは子供のころから知っている。社会規範を少しばかり破ったからといって、どうしてその人を憎むことまでできるだろうか。しかし、法は、罪さえも憎んでいるのではなく、社会秩序維持のためにだけ動いている。そう動くことしかできないのかも知れない。
 難病で苦しむ息子の人工呼吸器を止めて窒息死させた母親が、その行為を悔いるばかりに日々「死にたい」と苦悶し、夫と二人して心中に走るがそれもかなわず、最後には「殺してほしい」と依頼された夫がその妻を殺す。新聞を読み、うな垂れることしかできなかったのは確か10月。朝、その夫に対する殺人罪適用を見送り嘱託殺人の罪で起訴という記事を読み、よかった、と素直に思う。

| | コメント (0)

変わらない

Fh030020

 赤ちゃんの手の平ほどの丸いクッキーを、手作りだって、と言って袋から出しながら手渡された。これで三百円は高いよね、と目の前にビニール袋をかざして見せるが、わかんねえ、と答えて齧った。おっ、うめえ、うめえじゃ、それだけ言って、もぐもぐと口を動かしながらその場から離れた。
 夜、どうした? と聞くので、駄目だ、どうも俺はあんな洒落たもんは駄目だ、あれからずっと胸の辺りから口に残って、どうも食欲が湧かない、と言うと、何が? と聞くので、あれさ、あの昼間食ったクッキーの匂いというかバターというか、あれが残って駄目だ、と首を傾げた。あんなもんでかい? と笑うので、バターというか、どうも脂には弱いよな俺は、と言った後、我ながらさすがに情けなくなった。
 鮪はトロより赤身、鰹は戻り鰹より初鰹、ラーメンは豚骨より醤油、と決めたわけではないが身体がそうなっている。若い頃はこんなじゃなかったけれどなあ、と呟くと、暴飲暴食してきたからだよ、と相変わらず肉食派の母親が言う。違うよ、俺は父親似なんだよ、と言ってはみたが、体質は変わるのに何故こんな性格は変わらないのだろうかと考えてしまった。

| | コメント (0)

雲を見つめて

Fh000185

 散歩の途中、おーい、おーい、と空き地から声がした。立ち止まってみると、高校時代の同級生が手を振っている。おう、何やってんだこんなとこで、と近付くと、
「何やってんだはねえだろう、〇〇!」
 相変わらずトボケタように言う。
「なんだ、紐を張ったりして、分譲地で売り出すのか?」
「おう、そうだ。安いぞここ。どうだ、お前も一区画。早い者勝ちだぞ」
「陽当たりもいいとこだもんな。きっと売れるよ」
「いや〇〇、俺は土地建物を売ってんじゃねえぞ」
「じゃ、何売ってんだよ」
「夢だよ、夢。何千万です、なんて言ったって、この不景気にそうそう売れるもんじゃねえからよう、あなたの夢を買うんですよ、って教えてやんのさあ」
「なるほど。相変わらず達者だなあ、お前の口は・・・」
「バカ、ほんとだよ! そうでも考えなきゃ買えねえぞう、家なんか! 俺はねえ、お手伝いをしてるだけ、夢の配達人だよ、ボランティアみてえなもんさあ」
 真面目くさって言うから、可笑しくて仕方がない。
「で、その夢を売るお手伝いをして幾ら儲かるんだよ、お前は・・・」
「うっ」ニコリと笑い、「そりゃあ、お前、米代だけは貰うのさあ」
「そうかなあ・・・。酒や可愛いお姉ちゃんの分まで入ってんじゃねえのかあ。まあ、お前なら売れるよ。じゃあな」
「どこ行くんだよ・・・」
「夢を探しに行くのさ」
「バカ〇〇、夢は落ちちゃいねえぞ、買うもんだぞ」
「おっ、そうかあ、そうだよなあ・・・」
「落ちてりゃ俺だってこんなことしてねえよ」
 俺だって落ちているとは思ってねえよ、と雲を見つめて歩いた。

| | コメント (0)

誰よりも響き渡る声

Fh000028

「たまには銘柄を変えてみようと思うが、これは売れているの?」と指差して訊いた。
「あっ、それは売れませんよ」
「えっ」私は一瞬、言葉に詰まったが、「あ、そうかね。でも、少しは売れるんだろう」と聞き返すと、
「ええ、まあ。少しなら・・・」と彼、店員は平然と答える。
 戸惑いと天邪鬼が入り混じったが、どうやら私は素直ではない。それを彼の前に持って行き、
「商売なんだから、まあまあ売れてますぐらい言った方がいいよ」と笑いながら言うと、何のことやら理解できなかった風に「はあ」とだけ返事してレジを打つ。その顔を見ながら、こいつは女にはもてないな、と思うが、なんとはなしに好い奴だなとも感じて温かくなる。
 ある日、親しい女性店員との間で、変な人でしょ、あの歳して彼女なし、オタクっぽいでしょ、でも古いお寺の息子なんだって、と彼のことが話題になり、「へえー」と何故か笑い合った。
 そして今日、「お寺の息子さんなんだってね」と聞くと、「はい」と目を丸くして答える。
「お坊さんにはならないの?」
「はい。僕はお坊さんの大学で勉強してませんから」
「じゃあ、お寺は?」
「ああ、兄ちゃんがお坊さんになりましたから・・・」と相変わらず愛想のない返事である。
 人が自分には無いものに憧れるように、私は実直な人間が好き。
「じゃあ、またね」
「ありがとうございましたあー」
 と、彼の声は誰よりも響き渡る。

| | コメント (0)

さり気なく教えられた

Fh000031_1

 人一人通れる通路の中からドアを押して出ようとすると、外から誰かが引いて開いた。ほんの一瞬の間だったが顔を見合わせて、お互いが同時に身体を引いた。
「あっ、さあどうぞ」
 と明らかに私より年配の婦人は、大きく身体を避けて言う。
「いえ、とんでもない。どうぞ、さあどうぞ」
 と私も半歩右に寄れて言う。
「いえ、いえ、どうぞそちらから」
 と、その婦人はドアの袖に隠れるようにして促す。
「いえ、そうはいきません。さあ、そちらかどうぞ」
 と私は更に上半身を横に傾ける。
「あら、それじゃすみません」
 そう言って婦人は身体を中に入れ、私の鼻先を通りながら、
「すみませんね、ありがとうございます」
 とにこやかな顔をして後姿に変わった。
 日常よくある、そして過去に経験したことのある然もない情景なのだが、何故か車に戻っても気になってしまった。それはその婦人、と言っても私の母親であってもおかしくないくらいのその方の持つ余裕というのか、穏やかに包み込む雰囲気というのか、とにかくその自然体が私を素直な心根にしてくれたのは確かで、もし相手が私よりも明らかに若いのであれば、きっと「あ、どうも」と言って先に出たであろうし、もし私が先に開けたドアの目の前に若い人がいたなら「さあ、どうぞ」と促すことはしないだろうと思うと、さり気なく未熟さを教えられたような、そんな気がしてならなかった。

| | コメント (0)

「上を向いて歩こう」

Fh000180

 最近は暗いうちから窓を開け放ち、電気をつけて新聞を読むことが習慣なのだが、新聞屋のバイクの音以外にサッサッサッっと決まって聞こえる音がある。それは足音にも聞こえるし、洋服が擦れる音にも聞こえる。どんな人かと思うときもあれば、元気だなと感心することもある。私の感情は日によって違う。
 ここが痛い、あれが駄目だ、あの人はこうだ、とマイナスの気を貰うと、どうもこちらが参ってしまう。それは弱さからだろうが、それを振り払う気が起きていない朝は尚のこと辛い。毎朝となると、ついつい避けるような行動に出てしまうのだが、まったく仕方がないなあと思うこともあれば、朝からうるせえなあと苛立つときもある。私の感情は日によって違う。
 どうやら人間は、意識ではどうすることもできない無意識にも左右されながら生きているようなのだが、今朝、両手をズボンのポケットに突っ込んで、口笛を吹きながら空を見上げて一人歩く少年に出くわして、ああ、きっと彼は無意識のうちに空を見上げ口笛を口ずさんでいるのだろうと思うと、おそらく彼が知らないであろう坂本九の「上を向いて歩こう」は確かに名曲なんだと妙に感心してしまった。

| | コメント (0)

電子ブック

Fh000169

 文学全集と百科事典を貰ってもらえないかと相談された。とんでもない、こっちだって整理したいくらいである。御宅は家も大きいのでとって置けばいいじゃないですか、と笑いながら答えると、誰も読まないって、要らないって言うから、と困った顔をしながら、何よりも地震が恐いから、と先だってのことを思い出したように言う。
「そうですよ、ほんと、それですよ、地震ですよね。僕もそれが心配なんですよ」
「〇ちゃん、こないだ大丈夫だった?」
「いやあ、崩れましたよ。僕もどうしようかって考えてるんですよ。そうだなあ・・・、要らないなら捨てるしかないかもしれませんよね。やっぱり、今時の子は、文学全集なんても読まないかもしれませんよね」
「そうだよ、本なんて読まないよ」
「そうなんだなあ・・・。ところで小母さん、誰が読んだ本なの?」
「誰も読みはしないよ。何年か前に、止せばいいのに知り合いの家から貰ってきたんだよ」
「小父さんが?」
「そうだよ、うちには知性が足んないなんて言ってさ。今んなったら、地震で倒れちゃ危ないから〇ちゃんに相談して来いって・・・」
「まあ、探せば欲しい人もきっと居るだろうけど、早く処分したいんでしょう?」
「そうなのよう・・・」
「そう言えば、今は家電製品の回収は来るけどちり紙交換が来ないですよね」
「そうだよねえ、何処行っちゃったのかねえ」
「ま、捨てに行くときには手伝いますから・・・。そう言っておいて下さい」
 そう返事をしながら、先日来ずっと気になっていた電子ブック、キンドルのことを思い出していた。

| | コメント (0)

破顔一笑

Fh000093_5

 月に一度くらいの割りで開かれる集まりに出ると、「俺よう、癌になっちまったよ」と唐突に先輩が言う。
「嘘でしょ」
「胃癌。切腹だってよ」
 市の検診で再検査を促され、その集まりの主催者であるクリニックの先生がカメラで見つけ、大学病院での手術が決まったらしい。
「人生、何が起こるか分からねえなあ。仕事も終えて、二人目の孫が生まれて、安堵したらこれだよ」と気落ちしたように言いながら、「さすがに一週間くらい眠れなかったよ」と溜息をつく。
「でも、初期なんでしょ」
「大丈夫だよ。小さかったし、悪いのじゃなかったからなんでもないよ」
 先生がいつになく真剣な眼差しで言う。
「入院の日にちが決まったら教えてくださいね、お見舞いに行きますから」
「おう」
 それ以上誰もその話題に触れようとはしなかった。
 実は、自宅介護を始めた親戚のことについて介護センターの社長に聞きたいことがあって来た私だったので、沈黙を破るように思い切って話題をそちらに振った。
「それは難しいな。自分で歩けないようじゃ大変だよ。お嫁さんも最初は気を張っているから頑張れるけど、リハビリは長いからね」
「そうですかあ。容易じゃないことは分かるんですが、やっぱり難しいですかあ・・・」
「まあ何かの時には相談に乗るから・・・」そう言いながら、「渡しておきなよ」と名刺を差し出してよこした。
「はあ、どうも」と丁寧に貰っていると突然、
「先生、俺は若い頃から脂物が駄目なんですよ。食べるとたちまち腹が痛くなるんですよ。胆嚢が悪いんですよね、胆嚢が」
 と自動車屋の社長が大きな声で言う。
「えっ、脂物って、トンカツや唐揚げなんても食べないんですか?」
「食わねえさあ、痛くなんだもの」
「ああ、だから油売ってんですね、車売って身体に補給してんですね!」
 社長は驚いた風にじっと私を見つめた。その時、
「うまい!」
 と先輩が大声を上げた後、破顔一笑した。そして、いつもの他愛無い話がようやく始まった。

| | コメント (0)

そうだよう・・・

Fh010024

 連れが仕事場でのことを愚痴る。贔屓目を差し引いても、そりゃねえなあ、と思う。
「大人だから、年上だからってみんなが偉いわけじゃないからねえ」と答えてはみたが、果たして俺だって・・・、と思う。
「それに、こんな子も居るのよ」と言われ、
「大人に成り切れない人間もいるんだよなあ」と返事をしてはみたが、果たして俺も・・・、と思う。
「まったく頭にきちゃう」と言うので、
「まあ、そうカリカリするな。そうやって揉まれて自分が大きくなると思えばいいさ」と格好つけてはみたが、果たして俺は・・・、と思う。
「変だよね」
「実は俺も最近、妙にせせこましいなあ、と感じることがあるよ。何となくだけど、自分勝手な世の中だなあと思うことがある。だけど、そう思うときって、誰よりも自分が一番身勝手だなあ、とも思えてきて情けなくなるよ」
 上を向いて生き、下を見て暮らす、と言う言葉が好きである。けれど好きなだけで、なかなか凡人にはできない。あれが欲しいこれも欲しい、あれが食いたいこれも食いたい、あれは嫌だこれも嫌だと、いつの間にか下を向いて生き、上を見て暮らしてしまう。
「そうかなあ・・・」と言われれば、
「そうだよう・・・」と返すことしかできない。




| | コメント (2)

その夜、鮎は届かなかった・・・

Fh010013

 少し遠くまで歩いた。土手の上から釣り人が幾人か見え、その中に近所の小父さんを見つけた。近付くとこちらに気づいて苦笑いする。
「釣れる?」
「駄目だよ、〇ちゃん。齢はとりたくねえなあ、餌を用意しといて持ってくるのを忘れちまったよ。仕方ねえ、コマセからデカイのを選んでやってんだよ」
「なんだかなあ・・・」
「やんなるよ、まったく。帰るよ、もう・・・」そう言いながら糸を飛ばし、「勉強終わったのか、散歩か?」と横を向く。
「うん、ちょっと昼飯食いすぎたから腹ごなしに・・・」
「そうかあ。車だから一緒に乗ってけ・・・。ちょっと待ってろ」
「うん」
 そうは言ったが、折角歩いてきたのだから断ろうかどうしようか迷っているうちに、なんとはなしに言ってしまった。
「どう、車の鍵は・・・。俺、行って持ってくるよ。小母さんに言えばその餌の場所は分かるの?」
 と手を出していた。
「おっ、行ってきてくれんのか! ほんとか?」
 と、まるで子供のような顔をする。
 餌を受け取って戻ってくると、照れたような顔で、
「ありがとう、ありがとうな、すまなかったよう」
 と、満面の笑みである。
「小母さんが帰ってくるなってよ。釣れるまで帰ってくるなって!」
「わるかったなあ、ありがとうな。申し訳なかったよう」
 そう言うと背筋が伸びた。
 その夜、我が家に鮎は届かなかった。

| | コメント (0)

大いなる矛盾

Fh000112

 数えてみれば十五、六時間、胃の中に固形物を入れていない。もちろん水分は補給するが、私は朝ご飯を食べないのでそういうことになる。取り立てて体調がすぐれないというわけではないが、一日二食の生活は長い。そのことで家族は何も言わない。
「あのお婆さんと話をして驚いたよ」と母親が言う。
「誰? 何が?」
「ほら、あの人、92歳になるって・・・」
「ああ、あの人か。元気だねえ・・・。ときどき散歩しているのを見かけるよ」
「あのお婆さんもあんたと一緒で朝ご飯を食べない二食なんだって。若い頃からずっとだって・・・」
「ふーん。ほら、有名な〇〇〇病院のなんとかっていう先生も朝は食べないって何かで読んだことがあるよ。あの本の〇〇先生も二食を勧めているよ。まあ、二食だろうが四食だろうが、その人の身体に合えばいいんだよ」
「そうなんだねえ・・・」
 私は食事をすると何故か頭が回らなくなる。眠くなってしまう。子供の頃も、午後の授業になるとうつらうつらしていたような気がする。大人になってからも、出張先のホテルで軽い朝食を取ると、午前中の仕事に身が入らなかった。それと、妙に思うかもしれないが、腹が減る、身体が無性に欲しがる感覚、昼時の、ああ、腹減ったあー! とか、山歩きしたときの、まだかよ昼飯! のガブリ付きたくなる欲求が好きでもあるし、いつのまにかそれをとても大切にしている。無性に甘いものが欲しくなったり、特大のトンカツを食いたくなったりするときには素直にそれに従う。
 であるなら、朝食をとらないように、せめて二日に一度、いや、三日に一度酒を抜けば、それは格別の味がすると判ってはいるのだけれど、それができない。夕方、無性に身体が要求するのかと言えば、そうでもない気はするが、つい呑んでしまう。身体の欲求を大切にしていると言いながら、大いなる矛盾である。
「そうだよ、身体に合えば酒だって毎日でもかまわないんだよ」
「そうかねえ?」
 と、なる。

| | コメント (0)

俺って馬鹿だよな・・・

Fh010027

 ごくたまに、そう二ヶ月に一度くらいだろうか、もし時間があったならと電話を下さる方がいる。一応用件は、パソコンが解らないと言うことだが、73歳になるその方より多少できる程度の私である、行ったところで然して何を教えるわけでもない。小さな我が家が何軒建つかしれない素敵な庭を歩き、旧家であるお屋敷の玄関を開けると、呼び立てて申し訳ないと恐縮した体で出迎えてくれる。いったいどんな偉い方が座るのだろうといった黒皮の立派な応接セットのある広い部屋を横目に、いつもきまって二階の小さな部屋に通される。そこにパソコンがあるのだから仕方がないと思うが、紅茶が運ばれてきて、ときには茶の間で日本茶を出されるぐらいで、一度も応接間で接待されたことがない。
 さて、パソコンなんてどうでもいい、といった風な時間になるのはあっという間で、話は近隣のことやら政治、経済、はたまたご夫婦で行ってきた旅行の話しや写真を見せられることになる。それを覚悟の上で来ているのだから別に嫌ではないが、あの応接間のあの椅子にのけ反って一度ゆったりと話しを聞きたいものだといつも思うのだが未だに叶わない。今日は、ビデオカメラを買ってきたが上手く操作できない、あっ、ついでにカメラも新しいのを買ってきた、と見せられるが私だって門外漢である。二人してマニュアル読みながら、ああじゃないかこうじゃないかでやっと動く。そして二人して、ああよかった、で終わる。そしてまた、たわいない話。
「あのう・・・、いったい、どんな偉い方が来るんですか? あの応接間でどんな話しをするんですか?」
 思い切って訊いてみた。
「偉い人なんて来ないよ。近所の集まりのときに使うぐらいで飾りだよ。〇〇さんが一番偉い人だよ。だから茶の間へも入ってもらうんだよ」
 と笑う。
「はあ・・・、そんなもんですか。いや、一度座ってみたいなと思ったもんで」
「止めな、やめな。腰が痛くなってずっと座っていられないよ。孫が来たときに跳ねて遊ぶか、そこらの人間が来たときに使うだけだよ」
 と渋い顔で頭を振る。
「そんなもんなですかあ・・・。いやあ、葉巻でも銜えてのけ反ったらどんなだろうと思ったもので・・・」
 アハハと笑いながら、「それじゃ馬鹿じゃないですか」と言う。
 あっ、やっぱり俺って馬鹿だよな、と妙に納得してしまった。

| | コメント (0)

私は小椋桂の歌が好き、だが・・・

Fh000024

 私は小椋桂の歌が好き。青春が甦ってくるし、今聴いても、あの匂い立つ言葉に心は揺れる。朝、ラジオから流れてきて、つい聴き入ってしまった。
 私には大嫌いな歌が一つある。それは、小椋桂の歌。あの歌。
「少しは私に愛を下さい」
 駄目だ、切なくてしょうがなくなる。この世の中が真っ暗になるくらいに悲しくなる。何故こんな歌詞が書けるのだろうと恐ろしくもなる。
 私は小椋桂の歌が好き、だが一番きらいな歌が小椋桂の歌の中にある。

| | コメント (0)

気になる構造

Fh010001_1

 昔、一軒だった路地売店があちこちに立ち始め、近頃では、街中の八百屋でない店先にも野菜が並ぶようになった。それだけ露地野菜は人気なのか、あるいは老人でもない暇を持て余した退職者が多いのか、盛況であることに間違いはないらしい。
 
体調がすぐれなかったので気分転換にと久々に山間を歩くと、毎日というくらい歩いていたころとは違い、道沿いの野菜が見事というしかないほどに大きくて綺麗だ。途中、知り合いの家の前で呼び止められ縁側でお茶をご馳走になりながら、路地売店に下ろす事を憶えたので大量肥料や消毒が始まったことを教えられ、さっき見てきた野菜の出来栄えが理解できたような気がした。虫食いだと売れないから、一軒が始めればどの家も始め、お陰で自家用に無農薬の虫食いを作っている家に余計虫が飛んできて困ると言う。競争で活気が出るのはいいが、確かに歪みはどこかに出てくるとつくづく感じた。
 私も数年前に机上を離れて始めたことがある。農業というようなものではなく、少肥料微農薬で野菜はできるだろうかと、それこそ子供の理科の実験のようなものだったが、二、三年してやっと自信を持ち始めたころ、猿と猪にやられて諦めた。情けない男である。
 太陽の下、露地栽培で少肥料微農薬の野菜を、それも売るほどに作るのは容易ではない。だから、つい多肥料で余計に農薬を始めてしまうのはよく分かる。それを分かっていながらそれでもスーパーの輸入野菜よりは益しだと思って路地売店が繁盛する。どうやら、妙な構造が出来上がってきているような気がしてならない。

| | コメント (0)

恩を感じる

Img_49421    

 私が上京したてのころ、姉夫婦から子守を頼まれたことがある。甥は三歳ぐらいだっただろうか、素直な子で私にもなれていたので心配はなかった。甥が便所に行くと言うので、おう、そうか行ってこいぐらいの気持ちだったように思う。突然、「出たあー」と大きな声がするので、私が何事かと走っていくと、トイレのドアは開いたままである。「どうした?」とそのドアを更に引き開けて私は思わず絶句というよりは顔をそむけて口を塞いでしまった。いくら子供といえども他人のウンコの臭いは強烈で、尚悪いことに和式便座だったため、人がこちらにケツを向けている姿など見たこともなかったのである。私は何かに打ちのめされたような衝撃と、何とかしなければならないといった焦りとで、決して大袈裟にではなく一瞬目の前が見えなくなってしまった。「早く拭いて、ふいて」と屈んだまま便器に手をついてせがむように言う甥の言葉で我に返り、近寄れば一の字の立派なウンコである。こんなガキがこんな立派なものをするのかと更に驚き、私は息を止めて、まるで世の中の悪でも拭い去るように何度拭いたか知れない。そしてその後、何度手を洗ったことだろう。まさに青天の霹靂であった。やがて帰ってきた姉に、「いつもああしているのか」と何事にも疎かった私が聞くと、「当り前じゃない。あんたもああやってもらって大きくなったんだよ」と言い返され、何かを諭されたように黙ってしまった。
 昨日、その甥がメールを寄こした。
「ニーナは一日一回まとめてウンコをするので、オシメから溢れて大変です。子育てというのは、改めて親の恩を感じられるものだな、と思いながらオシメを換えています」と。
・・・・
 叔父さんの恩も感じろよ!

| | コメント (2)

ずっと青くて広い

Fh000120

 この世の中には、言葉では伝えられないことが幾つもある。例えば、痛み、痒さ、悲しみ、可笑しさ、憤り、充実、虚無、・・・・。
 病に倒れて一年が過ぎようとしている私と同じ年の親戚の彼は、未だ一人では歩けず、やっと車椅子に乗れる状態。家で介護し始めた嫁が電話をしてきて、思ったよりも大変だと状況を伝える。そして、言葉につまり、泣く。私は黙る。
 今日も空は、どこまでも青く高い。この空をどう表現したらいいものか・・・。言葉では伝えられないことが幾つもある。
 けれど、
「でも、がんばるからさ!」
 と、電話は切れた。
 見上げた空は確かに青い。一年前よりずっと青くて広い。

| | コメント (0)

«違った理屈で生きている